魂をアートする

北海道生まれ福岡在住の志起です!書のこと、音のこと、魂のこと、宇宙のこと。

感覚を研ぎ澄ます=ルーティンを繰り返す、ということなのか。

僕はルーティンが嫌いになった。
そう「なった」なのだ。10代の頃は大枠を決めたトレーニングメニューに従ってキッチリとウエイトトレーニングのワークをやりきっていたし、若い頃の方が決めたら続けていた。

20代からである。
一定のリズムを刻めなくなったのは。

ああ、なんだかこう書いていて、段々と昔の自分が一定のリズムを刻めていたことにとても重大な意味がある気がしてきたのだけど、それはまた別の日の考察としよう。




最近の音楽は、基礎的な練習を楽しんでいる。

ジャンベ
真笛(篠笛)

この2つの楽器は、僕はなんだかんだと人生を共にする気がしないでもない。感覚的に、ジャンベはもしかすると、別の打楽器に変わっていく可能性も感じてはいるが、笛はどうだろう。縦か横かで言えば、横な気がしているし、となるとそこはあまり変わっていかない気がする。

まったく違う音質の楽器だ。
どちらか一方だけにしてしまうことも、僕は嫌である。(誰も制限してへんて)

まあそれは置いといて




最近になって、単調な作業の繰り返し=ルーティンワークを、楽しむ心を取り戻している。

少し前までは、例えば習い事したいけれど、毎週同じ曜日同じ時間に同じことをするなんて絶対に無理だ!と思っていた。

仕事も今までは土日関係ないシフト制のものが多かったし、そうなると毎週の休みが刻む時のリズムはバラバラで、加えて出勤時間もバラバラならば、生活リズムに一定の基準はないものと言える日々だろう。




ふと、思う。
特に最近は「マヤの暦」から始まる暦学を少々勉強したこともあり、時のリズム、がバラバラであることは、どうにも「素敵なもの」をもたらす気がしない。(僕の場合は、です)

と思うのも、今はグレゴリオ暦のカレンダーの休み通りのリズムで動いており、基本5日学生2日遊び人の生活だ。

で、最近はお弁当の為に、そして出来うる限りの簡略化の為に日々炊き込みご飯を作り、それをお昼兼晩御飯とし、また夜に炊き込みご飯を仕込むことで(基本朝は食べない)お弁当という面倒な事業を速やかに迅速に遂行しうる解決策となっているが、同時に家事全般にも少しづつ、丁寧さが見えている。


簡単に言うと、ちょっとずつ主夫臭が増している。
(*反比例の対象は奥さんであることは内緒の話)



僕は少し前にはとても

  1. 意味のある人生を送りたいと思っていたし
  2. 特別な何かを成したいと思っていたし
  3. それ以外の何かには目をかける余裕のない心であった

ものだから、こと料理なんてものを日々のタスクに組みこもうものなら、それに捉われる時間の多さに腹ただしくなったものだった。

それが

今日はこれだぁ

ホットケーキのタネとなんとメレンゲだよ、手動ね。めっちゃカシャカシャしたんだから。

それが、これよ

確か初めてのホットケーキ。(すぐ忘れるから忘れてるだけかも)

基本、お菓子が分量を適切にしないと上手に作れないので、大雑把な男子系料理者の先導を切るものとしては、でっきるだけ避けたいカテゴリがお菓子作りだったのだ。

それが、ホットケーキというめっさ簡単なものとは言え、僕がお菓子を作ったのである。しかもですよ。

カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ、カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャと20分くらい手動でメレンゲなるものまで作ったんですよ。メレンゲって言葉を今日初めて知ったよね。「メレンゲの気持ち」っていうテレビは知ってたけどさ。




なんかさ僕は

ゆとりある心でホットケーキ作りを楽しめた自分がとても嬉しいんだよね。






、、、




とここまで脱線したとこで、本題に入るんだけど。

ここ数ヶ月、本当に心の在りようが変わっていて、以前は奇抜で、個性的で、独創的で、未来感溢れて、未知的で、かつ"出来るだけカンタンに手が届く"ものが心に響いた。

多分、それを20代主に前半にやりきって、今の僕は"そのスタンスに人生の限界を感じ始めた"のだ。(あくまで僕の人生の話だ)






深みがない。
僕は、例えば音楽なら"一音の深み"を聴くくせに、自分に対してはずっと反対の性質を求めていった。

だから"すぐに壁にぶち当たったし、壁を破ることはなかった"んだろう。


ーーー


10代の頃は、壁を突き抜けていくことに快感を覚えてすらいた。

だからウエイトトレーニングが好きだった。目に見えて数字に現れるからだ。

自分を省みると、そんな10代の自分とこれまでの20代の自分との境には、とある出来事があるのだけれど、それが僕自身の舵取りを大きく変えたことは違いない。

そして、その舵取りを経て、僕はきっと早い段階で学びに広がりを得ることができたんだろう。しかし、そこに深みはないのだ。

僕は他者のパフォーマンスの、深みに敏感な感性であるのにだ。





僕は29歳。もう20代の誕生日はこにゃい。

30代を目前にして、僕は本来の自分へと立ち返ってもいいのかもしれないと思っている。

どうにも、印象付くのは20代の人生だが人生を楽しんでいたのは10代の頃の自分ではないか、と思う。

今は今で、あの頃にはなかった結婚生活や、猫たちとの暮らし、主夫業笑、楽器たち、書、たくさんの喜びがある。


けれども。





一音。
一音の響き。

その深みが増す喜びを、ベンチプレスが昨日よりも2・5キロ重い重量を挙げれた喜びと結びつけるのはおかしいだろうか。

だが、もしこそこが結びつくなら、昨日の自分を越える為には、日々の積み重ね以外に道はないのだ。

その積み重ねが深みであり質となっていくなら、そしてそれは同じことの繰り返しでしか得られないものであるならば

人生はもしかすると学びの時(広く浅く)極める時(狭く深く)の2つに時間を捉えていくと、自分を見失わずにいれるのかもしれない。




今日の、音は良かった。
単調なルーティンに還るほど、それが磨かれていく気がしてならないと感じていることもまた、僕の心が、在り方を変えようとしていることの現れなのだと思う。



そんなことにまつわる話も、18日の坂爪さんとの対談で、できたらと思う。

お席数は少ないですが、まだお申込みいただけますので是非いらしてください♫






書奏家 志起
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