魂をアートする

北海道生まれ福岡在住の志起です!書のこと、音のこと、魂のこと、宇宙のこと。

原点はどこだ。肉体無くして創造なし。

昔は魂の使命だなんだに、傾倒していた。そこが全てだと思った。




今は、原点回帰。

肉体、心、感情だ。




そこから始めなければ、グダグダだ。

同じことを繰り返し、同じ後悔を重ねるのは、その中心にある同じ感情を無視するからだ。

僕はそのことを、奥さんから学んでいる。


(今週末、札幌へ行くよ!)


魂の使命だなんだを見つめるのは簡単です。

綺麗なままにしておける。

感情に向き合うことは最も難しいのではないか。

溜め込んだものほど、泥臭く、ひどく惨めで、暗く、重い。

だから皆、そこを避けて歩めたらと思い続ける。置き去りにしたがる。




だからこそ、そんな“最もめんどくさくて、最も尊い部分に自分を注げる奥さんを、本当に尊敬する”のだ。



世の中、罠が多し。





書奏家 志起
セッションご依頼はこちら♫

個性を尊重することと、その人の今を尊重するということは、近いようで違うお話なんだと感じた件。

朝だ。金曜日の朝は、土日のお休みに続くのだと思うと嬉しくなるリズムでお送りしております。

僕は、様々な体験を楽しみたい人間だ。
未体験そのものに好奇心を持っているし、新しい刺激の一切ない環境は、ちょっと厳しいだろうと思う。昔は"絶対無理だ"と決めつけていたので、判断基準も緩やかになってきた。



少し前の僕には、理解しようとしていなかった部分がある。それはどうしてそんなにも自分を抑え、縮こまり生きるのか?ということだ。

僕は人生の大半を好き勝手に生きてきた自覚があって、好き勝手が時々に喜ばれ、そのなかの一瞬には己の好き勝手な表現に感動してくれるなんてこともあってしまったものだから、僕は随分と、勘違いしながら生きてきた節があるなと、最近よく思う。

どういう勘違いか、と言うと人は好き勝手に生きれば、誰かの感動を刺激し得るものだし、みんなそうすべきだということだ。

過激派の自己表現推進一派だったのだ。

そんな勘違いは最近、よくよく「勘違いなのだな」と、感ずるようになってきた。




(北海道土産っぽい名前の九州のお菓子"雪うさぎ"ちゃん、食えるかぁぁぁ萌)



いや、食べましたけどね?
15分くらい鑑賞した後に。



昨日、お弁当食べて全然お腹空いてないのに水曜日パンデイに好奇心で手を出し、お腹いっぱいだからお裾分けしたお礼にもらいました。

こんな可愛いのがいるんだね!知らなかったぁ。






僕の勘違いは結論から言って人の個性は尊重しても、人の今を尊重する気持ちがなかったことがそもそもの原因なのではないかと、ボンヤリ思っている。

僕は単に、いらないお節介者であり、偽善者であり、独善的であり、ひたすら余裕がなかったのだと思う。



余裕って大事だよね



僕は今、多くがストレス環境から抜け出してきた人達と学生をし合っている毎日だ。

昨日はじめて他己紹介という、他者の紹介をするというワークをしたのだけど、その為の相手を評価する印象基準の中で(せかせかーゆったり)の項目があって。

僕はゆったり側の方に振って評価をしたが本人はせかせかだと思っていて、ここがとても不思議だと話し合っていた。




最終的には「多分、僕が知っているのは、今のストレス環境にさらされていないあなただからで、どちらかといえば今の方がよりまんまの自分らしいのではないか」というような話に合意し落ち着いたのだけど、それは単に自分の体験でもあって今でもあって、で1ヶ月足らずの時間しか知らないけれど、どう感じてもせかせかな印象には当たらないなと思える方で。



何が言いたいのかというと、多分僕らは環境に自分を形どられてしまっている部分が多くあって、役割を終えた今でも役割が自分そのものと思ってしまっている部分があるのだろうと思う。



結論から言って僕は

  • 役割は役割であり
  • 役割は自分ではないが
  • 役割は自分をよく知れる教材である

と思っている。



そして大事だと思うことは

  • どんな役割に徹しようとも、それに自分という存在は侵されはしない

ということだ。




僕は、これまでの人生で言えば社会の中にも"自分という役割で生きていたかった"し、それを遂行することによる摩擦で疲弊していたのだけれど、最近は『何かに属する時には、属した生命体(会社等)が生きる最低限の役割を担う』ことはとても大事なこと思うようになってきた。

その役割を遂行する中に、自分というエッセンスが含まれていく。

人生が常に未知というエッセンスに彩られていくように、会社などにとっては役割を果たした上での個々人のエッセンスが深みと広がりを与えていくのだとうと考えるようになった。



少し前ならば役割を生きる=自分は死ぬと思っていたからとても頑張って"自分"を生きていたのだけれど、余裕をもって考えてみると人というものは、どんな役割の中にも自分を殺すことなど出来やしないのだと思うし、自分が死んでいくということも思い込みなのだと思う。

もちろん、働き過ぎや、過度のストレスは、自分を殺していく。けれどもある意味ではそれすらも、自分を深めるエッセンスなのだろうとも思うが。


(ただ、萌えました)



そして、苦渋の選択でしたがいただきました、、、






余談はさて置き、僕は属することがずっとずっと嫌いでした。嫌悪していた。そこでは自分が死んでいくと思っていた。

もしかすると僕は、その思い込みから、自分を殺してしまっていたのかもしれない。一種の自己催眠か。





どんな会社に属し、どんな仕事をしてきたか、はたまた他の全てのことは、本当に自分を侵害するのか、というと、今の僕にはそんなことはなかったんだなと思える部分が結構ある。



冒頭に書いたように僕は誰かの今を尊重することをしなかったのだろうけれども、今という環境で社会の規律や会社の役割に縛られていない方を見てきて、そしてそんな方が語る自己像と今のその方とのズレを感じること

「ああそうか。みんな役割に徹し過ぎているだけなんだな。緩んだ環境では、放っておいてもみんな面白い。」

ということを感じていて、もしかしたらこれが役割を纏った同士での出会いならば、面白味のないご縁で終わってしまう方もたくさんいると思う。

けれども、役割を少しだけ超えた先には、みんな面白い個性をもった、ただの人なんだなということが、今の一番に学べていることかもしれない。



押し付けず
強要せず
迫らず

余裕をもって関わってみると、そんな風に見えてくるものがあるのだなと思う日々である。



(こんなにもあれこれ考えている日々なのに、吾輩の名はまだにゃい。。。)






書奏家 志起
セッションご依頼はこちら♫

今日も朝を迎えた。そして今日も誰かと関わり生きていくこと。

さて、とても眠い朝だった。

しかしいい朝だった。

現在、我が家には、4匹目になりかけている猫がいる。


(特別な事情がない限りは我が家の子になるである。)


そして日に日に増して行く心鈴のかわゆさ、まじ神。


(左の子、右のさぎりはお気に入りの寝場所取られて、それでもちょっとだけでも乗ってやるの図、これまた神級のかわゆさ)→アホ親



昨日はとても面白い時間であった。
が、正直に言えば、楽しい時間ではまったくなかった。(個人の心模様)
が、本当に面白い時間であった。楽しみがない反面、学びが多かった。
貴重な視点と意見を、いただけたし感じもしたので、本当に良い時間だったと思う。
誤解を与えたくないのだけれど、会に参加した方はみな、楽しそうだったと思う。

僕にとっては現在、外野のどこぞの言葉よりも、身内であったり近しい関係性の人からいただく言葉の方が遥かに重みがあるので、昨日は個人的に嬉しい言葉もいただけて、そこからまた発展するものは生まれたことを実感しているので、本当に良かった。

疲れた1日であったし、新人猫氏が気掛かりな日でもあったが、昨日という日が過ごせて本当に良かったと思う。

坂爪さんとのトークライブ的な告知でありながら、僕自身がトークに全然参加しなかったのは申し訳なかったが、あれはあれでいいのだと思う。これまた正直に言えば、今の僕に話すことで伝えたい欲求はほとんどないのだと気付く。

*こうして「ブログを書く」という作業は、多分別物だ。どれだけ相手を思っても、ここは個の空間だからだ。



もう少し言えば楽しい会話、雑談はしたいが、何かを解決したり、問題を議論することには今、ほぼ興味がないのだ。

その問題意識からそもそも抜けてしまうことが楽な在り方でありフラットであり、その意識がなければ日々は常にDo it now like feel.だと思う。

今感じている"それ"を生きればいいだけだ

ーーー

何も知る必要はない。知らなくても己に従える。
人に問う必要はない。問いかけは献立の希望くらいで充分である。
合否はない。この世界の唯一の受験はこの地球に生まれるか否かだ。

そんなスタンスでいて初めて、知識は人生を手助けするものであり、己の人生と他者の人生は互いに補完し合うものであり、自己開示とはまさに究極の調和の姿なのだから、僕はもっと怖れることなく己をさらけ出し生きることを、社会全体が求めていくといいなと思う。

と、言うことでどんな場面にも「怖れにしかならない情報」はいらないし、本当の真実とは得てして「平穏であり、選択肢のあるもの」なのではないかと感じる。



そしておそらく僕の自己開示とは芸術的表現に最も現れるのだから、ただそれをすればのだなと強く感じた。

だから、そもそもトークセッションという場には、僕はあまり用がないのだろうと思う。そう思えたこともまた、僕にとっては1つの財産と言っていい。

これが、マヤの話であるとか、その他の"何かを語る"ことはまた別の話であるし。


ーーー


唐突だが、著名な世界を股にかける点描画家の秋山峰男さんが言われる全てにイエスと答えるは、他者にのみイエスでは成り立たない、と僕は思う。

まずは自分自身へのイエスがあって初めて成り立つことを事例にあげると

  1. 私は絵を描く人間である⬅︎自分へのイエス
  2. それ以外にやりたいことはない⬅︎自分へのイエス
  3. から、それ以外しないと宣言した私にいただくご縁は全てにイエス⬅︎自分以外の全てへイエス

というスタンスであって、誰しもまずは私〜である-I am.という究極の魔法を自分自身に見出すことが大切だ。





これまた唐突だが僕は

橋渡すアーティスト

でありたい。




組織に属する人間も
組織に属さず生きる人間も

多分僕らは、それ関係なく好きだし、関わりたいと思っている。多くの人生、前者を線引きし遠ざけていたけれど、福岡にきて、そこに関わって4年。すげーやなことあって組織を抜けた今でも考えるのは組織内と外で生きる人間が、もっと交流していくといいなと。

僕は多分、強くジャッジする性格も持ち合わせているくせに本質的には線引きが苦手で嫌いだと思う。

ジャッジしながら、その自分に苦しむんだ。

なんていうかこれまでも僕の表現は組織の垣根関係なくあらゆる人に届いてくれたし、そこをごちゃ混ぜにしていきたいから。




結構、個人で発信して売れてった人も、なんだかんだと自分で組織を作っている人をみかけるし、みんななんやかんやと誰かと一緒にいたくて、一緒になんかして、一緒に楽しみたいんだと思うんだ。





本当に人が嫌いな人間というか関わるつもりのない人間には、そもそも人が関わらざるを得ない人生を持ち合わせて生まれはしない。

僕らの周りには(少なくともこのブログを読んでくださる方)たくさんの人がいる。

それがそもそも人と関わる人生を選んできた証なのだろう。



昨日1日を通して、これだけ感じることができたのだから、本当に良きご縁の日だった♫




書奏家 志起
セッションご依頼はこちら♫

心が穏やかであるということは、何にも変えがたい財産なのだと思う。

穏やかな心で生きられること。平穏無事。

ただそのことを幸せに感じられることが、どれほど大切なことか、今少しづつ感じられるようになってきた。

7月に仕事を辞めたことは、日々を過ごすほどに僕の心が穏やかになっていくことが感じられる、とても好ましい影響があるように思う。最初の頃は本当に楽しかった。けれども、だいたい未知=最初はなんでも楽しいものなのだから、仕事というものはもしかすると楽しい云々で選ぶことは、そんなにいい結果をもたらさないのかもしれない。

心が穏やかになっていく、と感じるということは、それ以前の時間には常にストレスがあったということだ。穏やかでないということは、「社会のルールや常識=答え」に自分を紐付け、自他の全てを答え合わせし続けるような、窮屈で柔軟性のない機械的な心のことを僕の中では指す。

僕は、そんな自分がいることはわかりきっていた。自分だもの。
そんな自分が嫌で仕方なかった。
あらゆることにジャッジのつきまとうストレス人生が。

でも、ある時から僕はそんな人生の止め方が全くわからなくなってしまっていたんだ。



何が問題だったのだろう。

宇宙にはルール(定め)は存在する
確かに存在する。

この地球も、太陽の周りを約365日かけて一周しているし、月だってそんな地球の周りを約29日で一周している。決して気分任せではない、一定のルールに基づいた働きの中に置いてのみそもそも生きられているのだから、すべてのルールがストレスに繋がるかと言ったらそれは絶対にありえなくて、むしろこの命がある種の法則に則るならその輝きはただただ増すばかりの人生だろう。

それは自然の法則、宇宙の法則=生命の法則だ。

これらの法則に基づいてはじめて命は生まれ、育まれていく環境であるのだから。

決してルール(法則)は、人生の敵ではないのだ。



ーーー

何が問題だったのだろう。

心は穏やかになると、社会のルールに対しても寛容さが生まれるし、自分の思い通りにいかない出来事に対しても、柔軟な表情でいられる。

ストレスが本当に溜まっていた時なんかには、少しでも道を遮られようものなら、例えば道路が渋滞なんかだったりした時には心は常に舌打ちしていた(いや実際にしてもいた)

とにかく、余裕がなかった。




余裕がないということは、もっと平たく言えば本当に疲れていたんだと思う。エネルギーが枯渇していたのだ。エネルギーがないから、自分の思い通りにならなかったことに対しての意識の方向修正すらすることができないのだ。

人は自分で自分の舵取りをできない時、自分が判断をしなくていいルールに基づいて生きていくことで自分を守る。つまり余裕がない=疲れてる人ほど社会の常識=答えを振りかざして生きるのではないかと思う。

なぜなら

それが最も楽で
そうすることでしか自分を守れないからだ。





今は、心は日々、穏やかだ。疲れている時には、ちょっと余裕もなくすけど。

毎朝6時には起きるけど、眠たいけど、それがストレスにはなってない。
前に勤めている頃には、9時過ぎに起きても余裕なのに、もっと寝ていたくて仕方なかったしどうにか休んでいい事態が起こってないか思案したものだった。

辞めていくらかの時間を過ごした今だからよくわかるが、嫌だったんだなぁ。

生活スタイルで言えば今の方が圧倒的にちゃんとしているのに、今の方が圧倒的に心は軽い。




心にゆとりができるほどにやりたいと思っていてもできなかったことがどんどんできるようになっていく。以前はやれない自分を責めていたけど、やれないのはきっと単純に疲れていたからなんだと思う。

そしてそれをする為にもまた疲れた自分を無視して頑張ってやっていたので、次にする時にはよりエネルギーが必要になるので”続かない悪循環”が生まれる。

疲れていない=やる気さえ日々あれば、何かを続けていくことも、そう難しいことではないのだと思う。現に僕は、日々丁寧に、台所に立ち食事に時間をかけることが出来ている。それが出来ていることは、半年前の僕がみたら、あんぐりと口を開け驚愕するだろう。

何をそんな悠長に生きているんだとお叱りを受けるかもしれない。




心が、穏やかで、在れるということは、まだまだ長い人生を歩んでいく上で、本当に大切な様なのだと思う。
日々を丁寧に疲れたらまず休む人生を意識していこうと思う。








9/18~9/19
福岡にいばや通信の坂爪圭吾さんがいらっしゃいます。
18日は僕が対談させていただく形式で坂爪さんのお話を聴くことができます!

急な開催決定の為であることと、開催場所がアットホームな為、とても距離感の近い中でのイベントになると思います。タイミングがある方は是非、いらしてください♫






書奏家 志起
セッションご依頼はこちら♫

スピリチュアルな学びから距離を取るって。

僕にとっては

息を吸うように学び
息を吐くようにアウトプットしてきたもの。

【スピリチュアリティ】




距離を取ろうが
なんだろうが

それは切っても切り離せない概念だけど

現時点でも、それに関して

【学び続けること】

は、選択するのはよろしくないなってことなんですね。

僕にとってね(゚∀゚)





ついついね

それ系の面白い記事や本があれば

調べちゃうし読んじゃうし

なんなら伝えようともしちゃったりするんだけど

僕はそれをすることで

頭の中ではわかってたんですが

「書や音楽から離れていた」

んですよね。

なんていうか

  • そこに向かいたくない(本当は向かいたいから)
  • もっと他に道があるかもしれない(という言い訳探し)

が、自分の中にはあって。




意図することなく
間違いなく

書や音楽にエネルギーを乗せていくことが

最も自分の中のものを放出出来る手段と知っているのに

僕は、半意識的に

そこを避けてたりしました。







そういうの

もうこれ以上してられないなって。

僕がスピリチュアルと距離を取るって

「実生活での時間を、そこに使うことをやめる(転換する)」

っていう意味で。





学んだことや

概念を

切り捨てるって意味でもない。

そこ

切り離せないし(゚∀゚)



(欲しけりゃ手を伸ばすにゃ)



マヤの学びとか
占星術とか
暦の学びとか

過去には

数秘術とか
生命の樹とか

いろーんなもの知ってきて

今でも、学ぼうとすれば

楽しく、興味を追って、学んでいけちゃうけど

どこまでも

【物足りなさが生まれる】

んだ。





やった気になって

やることやってないからなんだろう。

書けや。

奏でろや。

って。



今朝は6時過ぎの

スーツの自分は

職業訓練の試験に向かってました。

ぜーんぜん寝れなかったからめっちゃ眠い状態です。笑





リアリティ。

僕はスピリチュアリティは、本当に息を吸うように

概念も知識も、貯まっていくんだけど

ぜーんぜん

実生活とのバランスが取れてないというか

本当はもっと

【リアリティを楽しむ人間だよね?】


って、思ってるし、知ってた。



10代の頃のストイックだった。

けれどめっちゃリアリティ楽しんでた自分。

あれって

めっちゃ本質的〜って思うんです。
(あれ言うてもわからんてね笑)





あんな頑なでなく

もっと楽しげでいいけど。笑





ってことで

これからのテーマは

リアリティ

魂のお話ではなく

肉体を通して何をしていくかってことに焦点をあてていくぜい!





そっから魂語らんと

器が抜け殻状態で

「4次元的な灯台下暗し状態」

やなっと、思うですたい。






あっ

表現方法は変わらんので

セッション内容が変わるとかではないですので

よろしくです♫






書奏家 志起
セッションご依頼はこちら♫

月の月の表明。

奥さんは邁進中。



このワークは本当にスペシャリティ。

コブクロじゃないですが
ゆずじゃないですが
ケミストリーじゃないですが

2人揃ってはじめてハーモニーとなるような

2人がそれぞれ、ではなく

2人で一つ、みたいな

そんなセッション。



音楽の世界では、お馴染みですが

スピリチュアルなワークで、これを実現できてるって、なかなかないと思います。


ーーー


奥さんと出会ってから四年以上

今が一番、素敵に元気。

感性もキレッキレです。





怖いでしょうねぇ、反発したいでしょうねぇ、奥さんの言動には。

一番身近で浴びてる僕が一番、それを知ってます。笑

なんたって

【自分が避けてる、一番嫌なとこばっか突いてくる】

からね。そりゃあ、やだよね。笑





でも、奥さんと出会ったなら、それを見て欲しいってことだし

それをもう見つめたいってことだし

覚悟せずして、覚悟迫られるよねホント。笑




コラボセッションでは、はるさんがヒーリングによる浄化解放を促すし

奥さんは終点を映し出す鏡みたいなものだし

前から後ろから、向かうべき場所へと進まざるを得ないセッションだろうなと感じてる。

はるさんも、凄いのよ♫




僕は

ちょっとスピリチュアルな世界とは距離を取り始めようと思います。




心理とか
真理とか
審理とか笑

僕の魂ってそういうとこじゃなくて

【いかに自分を表現するか】

その道はどうしたって

【音楽や芸術】

を通らないとダメなんですよね。ホントに。





なぜでしょうね?

でもそうなんだから

もう仕方ないやね。




よってもう

「それ以外の道や手法」

「いくら自分を知ろうとしても意味がない」

そもそも

「自分を知ることが癒し」

の段階はとうに終わってるんだなということ。





ちょっと

現実世界で、頑張るっす。





月の月、月の音の日の、表明とお知らせでした♫





書奏家 志起

セッションご依頼はこちら♫

続けられることを続けたらいいよね♫

僕はいーーぱい興味が飛び火するんだけど

自分の中では常に一個のことを追い求めているつもりだったりする。



そして人はみんな

おんなじようなものじゃないかと思うんだ。

学問であれ

芸であれ

仕事であれ

あらゆる道を通して自分を知りたいし

幸せを追求していくんだ。



ただ

それだけなんだと本当に思うよね♫




ただそれだけのことに

やれ

【〜が正しい、〜正しくない】

と自分の心以外に気を向けた時から

いろーんなことがずれていく。




やるかどうか

”始める時”には

【面白そうかどうか、で決めればいい】し

続いてくかどうか

”継続”に関しては

【例え評価されない稼げないものでも続けたいと思える心】が

あるかどうかが一つの基準だったりする。




最初から周りが受け入れてくれるものもあるし

どちらかと言えば

そうでないものの方が多いかも知れないけど

外部の評価に依存しないことならば

そこには魂のエネルギーが乗っていくから

必ずさせてもらえるし

いつか多くの方の目に触れるものになる。




物事には

時がある。

早咲きだ遅咲きだ

大器晩成がどうのって言うけど

あれは

個々人の魂のエネルギー(時間)を

それぞれがどのような特徴を持っているか

でも違ってくると思うんだよね。




どうやっても

何をやっても

ゆっくりな人はゆっくりだし

早い人は早くて

次々に結果に現せたりできる。





僕個人の話で言えば

”何か新しいものを習得する”ことに関しては

結構早いんだけど

色んな薬品を調合して錬成していくような感じで

”様々な学びを集約して何かをしたい”

感じがあるようで




昔は

何かができるようになるたびに

「よしっ、これでバシッと稼いでいこう!」

みたいな焦った気持ちで動きまくってたけど

最近は

【やりたい時はやる、しやりたくない時にはやらない】

ことで

自分の中に流れてる”時間を感じる”ようにしている。




そうすることで

「ああ、自分は本当は〜に幸せを感じるんだなぁ」

動くことに時間と意識を注いでいた頃にはわからなかった

感情、気持ちを

感じ味わうことができてきています。




だから今は

無職って最高に幸せ。笑




今は、前職の嫌な気持ちも抜けて

「さて、そろそろ縁があれば働いてもいいぞ!」

と思えてるんだけど

流れ的には職業訓練申し込んでるし

受かるかわからないけど

働く、よりは学校的な雰囲気で”学びたい”気持ちが強いんだけど

どうなるかな?

今はこうした、一個一個の気持ち

内側に感じるものに

できるだけ素直になって委ねていこうと思ってます。




大きな願い、というか向かいたいヴィジョンは決めて

あとは細かな詳細は

僕は委ねることにしている。

何故なら、細かく決めようとしたら

まーあれはいやだこれはいやだと

結局物差しで計って

受け入れたくないものがやってこなさそうな世界ばかり望むんですが

そうやって片一方だけ見て望んだ世界なんて

何の学びもなく

その状態を魂が望むわけもなく

表面上望んだことはことごとく覆る阿呆な僕なので

そろそろ諦めの境地というか

やっと自分がわかってきたというか。笑




そして

本当に自分が知っている世界って狭いんですよね。

でも

世界は、いろーーーんな学びの道がある。

自分が決めて、そこだけに向かうよりも

詳細は委ねて、縁に任せて出会ったものの方が

「ああ、そんな道があったのか!」と

視野が広くなる思いですし

楽しいです。




前職もそんな感じでしたし

思えばいつも大事な選択は

僕の意識外から、自然と目の前にやってきていました。




今は

「次はどんな学びかな♫」と

不安なく

楽しんで自分を見守っている心境です♫

あっもちろん

そんな中でも

「〜をやろう、〜はやっておこうかな」

と自然と浮かんだ行動(例えば職安行くとか、もそう)は

ちゃんとやりますよ!

委ねる、は受け身じゃない。

その時に、自然と浮かんだ心に

身を任せてみることですね。




マヤの観点から言えば

その学びとは反対に位置する方もいるので

万人に共通の科目はない、と心得て読んでくださいね。笑

必要だと感じることを

受け取ればいいんですね。





さて

最近、改良ディジュリドゥで

やーーーっと念願の循環呼吸ができたので

今、そのテクニックをちょこちょこ磨いております♫

これがたーのしーいーーのと

占星術の、新しい読み解きのパターンを

構想中♫

色々学ぶと

過去にやってたことも

グレードアップして

新しいものになっていってくれるなぁ。




色々考えると

結局、やる意味あるの?なんて自問自答したりするけど

もうちょっとシンプルに考えたら

「好きか、どうか

楽しそうか、どうか」

は、やり始めの判断として十分なんだよね。

やってみてから

継続を考えるタイプな僕です♫





書奏家 志起

新年磁気の月の【魂の物語キャンペーン】やってます♫
【新年キャンペーン】魂の物語の書き下ろし! - 魂をアートする

セッションご依頼はこちら♪